2011年 06月 06日
楽しい飲み会とブログ6周年と天声人語
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先日、気の置けない同級生との飲み会。
いつも一緒だった大事な仲間の一人が欠けてしまって以来、久しぶりの会。
その仲間の話になったときの場の空気や自分の感情がどうなるのか、正直怖い面もあったが集まってみると、昔話や遊びや下ネタやもちろん仕事の話等々、話題は尽きずそれはそれは楽しい時間を過ごした。
ブログの「書きぶり」みたいな話題もあって、このブログについては、「固い」とか「まとまりすぎ」とか、酔っ払っていたのであやふやだが、そんな感じの忌憚のない指摘を受けた。でも何を言われても素直に聞ける親友のありがたさ。
確かに、自分自身でもだんだん考えすぎて、おもしろくなくなってきているように思う。それに書く時間がなかなか作れずすっかりペースダウンしてからは、たまに書いてもちっともまとまらない上に、つまらん内容になっている。やっぱり、「書く」ということも筋トレや柔軟体操と同じように継続が大事なんだと思う。
そういや最近、ロクに本も読んでいなくて、相も変わらずオンとオフの時間のやりくりができていないことに改めて気づく。
気がつけば、このブログも知らんまに6周年が過ぎて7年目に突入していた。小学校1年が既に卒業生して中学1年生。中1なりの文章を書けるようになっていなければならないのに、小1の方が良かったりして。
…とそんなことを考えさせられる飲み会から明けた月曜日の天声人語にすごくためになるお話。毎日書き写すことはなかなかできないと思うけど、もうちょっといろいろと書くようにしなければ。
いつも一緒だった大事な仲間の一人が欠けてしまって以来、久しぶりの会。
その仲間の話になったときの場の空気や自分の感情がどうなるのか、正直怖い面もあったが集まってみると、昔話や遊びや下ネタやもちろん仕事の話等々、話題は尽きずそれはそれは楽しい時間を過ごした。
ブログの「書きぶり」みたいな話題もあって、このブログについては、「固い」とか「まとまりすぎ」とか、酔っ払っていたのであやふやだが、そんな感じの忌憚のない指摘を受けた。でも何を言われても素直に聞ける親友のありがたさ。
確かに、自分自身でもだんだん考えすぎて、おもしろくなくなってきているように思う。それに書く時間がなかなか作れずすっかりペースダウンしてからは、たまに書いてもちっともまとまらない上に、つまらん内容になっている。やっぱり、「書く」ということも筋トレや柔軟体操と同じように継続が大事なんだと思う。
そういや最近、ロクに本も読んでいなくて、相も変わらずオンとオフの時間のやりくりができていないことに改めて気づく。
気がつけば、このブログも知らんまに6周年が過ぎて7年目に突入していた。小学校1年が既に卒業生して中学1年生。中1なりの文章を書けるようになっていなければならないのに、小1の方が良かったりして。
…とそんなことを考えさせられる飲み会から明けた月曜日の天声人語にすごくためになるお話。毎日書き写すことはなかなかできないと思うけど、もうちょっといろいろと書くようにしなければ。
天声人語 2011年6月6日(月)付
声欄に載る投書に、思わず背筋の伸びることがある。それでは足りず頭(こうべ)まで垂れたくなる一文を、先月の大阪本社版で読んだ。2年前に他界された奥さんが、10年以上にわたって小欄を書き写してくださっていた、という内容だった▼京都の大石治さん(77)のお宅には、丁寧な字で埋まったノートが27冊も残る。毎晩、就寝前の30分を充てておられたという。筆写につれて、日記の文章が無駄なく上手になっていくのにご主人は驚いたそうだ。宝物にしたいようなありがたい話である▼パソコンにおされて手書き文化はたそがれつつある。そうした中、多くの方が小欄を筆写してくださっているのを知った。専用の書き写しノートを発売したところ、面映(おもは)ゆくも好評らしい。筆者としては、日々の出来不出来がいっそう気にかかる▼自由律の俳人尾崎放哉(ほうさい)の一句、〈心をまとめる鉛筆とがらす〉が胸に浮かぶ。何も小欄に限らない。文を書き写す時間には、ゆたかな静謐(せいひつ)があるように思う。キーボードでは得られない「手と心」の一体感だろうか▼写真のなかった昔、人をしのぶよすがは肉筆だった。「平家物語」にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。なのに昨今は、職場でも互いの手跡を知らない同僚が増えている▼日ごろの「パソコン頼み」を反省し、この原稿は鉛筆をとがらせ、マス目の書き写しノートに書いてみた。恥ずかしながら5枚も反古(ほご)にした。さて出来不出来は。採点はどうか、お手柔らかに願います。
by ozin05
| 2011-06-06 23:24
| 日記